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知への恐れ―相対主義と構築主義に抗して(ポール・ボゴシアン 著)

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2021年12月17日発送開始! https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237576 ポール・ボゴシアン(著) 飯泉 佑介/斎藤 幸平/山名 諒(訳) マルクス・ガブリエル(あとがき) 四六判 / 厚さ19mm / 256ページ / 上製 【マルクス・ガブリエルの「新実在論」に大きな影響を与えたアメリカ哲学界の重鎮、ポール・ボゴシアンの名著、ついに日本語で刊行】 「普遍的な事実など存在しない」「知識は、社会的に構築されたものであり、私たちの科学は特別なものではなく、たくさんある世界を知るための方法の一つにすぎない」 このようなポストモダンの相対主義・構築主義が影響力を高めている。もしこれが正しいとすれば、私たちは、聖書による創造説や天動説、ネイティブ・アメリカンの神話などを、現代科学と同様に妥当性を持つものとして扱わなければならなくなってしまう。 しかし、普遍的な事実は存在しないのだろうか? 知識は社会的に構築されたものに過ぎないのか? 本書では、リチャード・ローティ、ウィトゲンシュタイン、トマス・クーンらの議論を整理し、相対主義・構築主義の論理的な誤謬や矛盾を解きほぐしていく。アメリカ哲学界に論争を巻き起こし、マルクス・ガブリエルが「新実在論」の幕開けとして絶賛した名著。 ━━推薦━━━━━━━━━━  事実は社会的に構築されたものにすぎないのか?  普遍的事実を擁護するための哲学的基礎はここにある。   ――斎藤幸平(経済思想家/本書訳者)  もはや誰もこの本の洞察よりも後退することはゆるされないのである。   ――マルクス・ガブリエル(哲学者/ボン大学教授)  繊細で独創的でありながら、  このテーマに興味のある人なら誰でも読めるほど親しみやすい力作だ。   ――ウォール・ストリート・ジャーナル ━目次━━━━━━━━━━━ 序文 ────────── 第一章 はじめに   平等妥当性   知識の社会的構築   学界における哲学 ────────── 第二章 知識の社会的構築   信念・事実・真理   普遍性・客観性・心からの独立性   合理的信念   社会的構築   知識の構築主義的描像 ────────── 第三章 事実を構築する   記述依存性と社会相対性   事実の記述依存性を唱える   事実構築主義の三つの問題 ────────── 第四章 事実を相対化する   ローティの相対主義的構築主義   ローカルな相対主義、グローバルな相対主義   グローバルな相対主義を拒否する――伝統的な論証   グローバルな相対主義を拒否する――別の論証   結論 ────────── 第五章 認識論的相対主義の擁護   はじめに   ローティ――ベラルミーノ枢機卿について   認識体系と認識実践   ウィトゲンシュタインとアザンデ族   認識論的相対主義を擁護する ────────── 第六章 認識的相対化を拒否する   一つの理性か複数の理性か   伝統的反駁   認識体系を受け入れる   一連の不完全な命題としての認識体系?   認識論的多元主義   一連の命法としての認識体系?   結論 ────────── 第七章 パラドックスの解消   私たちはどこに立っているのか?   規範循環に基づく論証の難点を取り除く   整合性   《出会い》対《正当化》   論証の再定式化?   ベラルミーノ   アザンデ族の論理   結論 ────────── 第八章 認識的理由と信念の説明   理由によって信じる   強い構築主義――対称性原理   真理の対称性   合理性の対称性   証拠に基づく信念の過小決定――トーマス・クーン   クーンの描像を評価する   過小決定――デュエムの補助仮説   結論 ────────── 第九章 エピローグ ────────── あとがき 終幕、そして幕開け マルクス・ガブリエル 訳者あとがき 飯泉佑介 ━抜粋━━━━━━━━━━━  学校で子どもたちに何を教えるべきか、法廷で何を根拠になりうるものとして受け入れるべきか、何に基づいて社会政策を行うべきかといったことを決定するうえで、科学には特権的な役割が割り当てられている。私たちは、何が真であるかについては事実が存在すると考えており、真であると信じる良い理由があるものだけを受け入れたいと思っている。そして科学が、少なくとも純粋に事実に関するものの領域においては、真であるものについての理に適った信念に到達するための唯一の良い方法だと考えている。それゆえ私たちは科学に従っているのである。  とはいえ、このように科学に従うことが正しいものであるためには、科学的知識が特権的である方がよい。いいかえれば、根本的に異なっているが等しく妥当な他の世界認識の方法が多くあり、科学はそのうちの一つにすぎない、ということではない方がよい。というのも、もし科学が特権的でないとすれば、ズニ族の創造説に認めるのと同程度の信頼性を考古学に、キリスト教の創造説に認めるのと同程度の信頼性を進化論に認めなければならないことになるだろうからだ。まさにこのような見解が学界においてますます多くの学者によって唱えられ、次第に学界の外部にいる人々の反響を呼びつつある。  このように平等妥当性はかなり重要な意味をもっている原理であり、それは象牙の塔のなかに限った話ではない。もしこの学説を受け入れる極めて多くの人文・社会科学の学者が正しいならば、私たちは、知識の理論に携わるごく少数の専門家の興味を引く、哲学上の誤りを犯していたという話ではすまない。そのとき私たちは、社会がそれに基づいて組織されるべき原理を誤認していたことになるのだ。平等妥当性を認める者たちが正しいかどうかという問いに取り組むことは、尋常でないほど喫緊の課題なのである。(第一章より) 『知への恐れ』は〔ポストモダンという〕一つの精神時代のフィナーレとなって終幕を宣言しただけでなく、新しいコンサートの幕開けとなるラッパを鳴らし、それは今ではフルテンポで進行中である。(…)私たちには新実在論が必要なのであり、そしてポール・ボゴシアンの賢明で、今後の道標となる本書は、大げさな文飾のない文体で書かれており、大きな刺激や洞察を与えてくれる。もはや誰も本書の洞察よりも後退することは許されないのである。(「あとがき」より) ――マルクス・ガブリエル(哲学者/ボン大学教授)